新現代を斬る・斜陽篇

政治と宗教のFC2版「余震と雑感」専門の雑文ブログです

山田監督は、スゴイ

話題の東京家族・・・丸の内ピカデリー2で観て来ましたが、10:00上映で中高年中心にそこそこの入り、これはかなりの人気です。いや~東映・松竹とテレ朝さん映画も快進撃のようですね。とにかく、私は映画が分かりません、と逃げを打っといて、まず子供の頃実家で寅さんをテレビ放映で観てうんざりしたのが、映画が始まる前から両親が「山田洋次監督はスゴイ!」を連発することなんですw 「この監督は東大を出て共産党支持で庶民目線の映画を撮る、日本の巨匠だ、寅さんは名作だ!」この内容を映画を観ながら2人で何度も何度も連呼するのですw だから私は素直に笑えるトラック野郎の方が好きw で映画ははっきりいうと希林さんの東京タワーみたいなんですけど、私は東京タワーの方が好きw でもいい映画です・・・東京物語を観てないので理解できていないと思うのですが、夜勤明けのため途中で少し寝てましたw 稔侍さん出て来た辺りから眼が冴えて来ました。他のレビューも参照し安心して書きますが、まずよいところは、吉行和子さんのお母さん。老いと若さのバランスが絶妙で、理想のお母さんですね。この映画のテーマを自分なりに考えると、「うち」を大事にしようということ。それは必ずしも両親を大切に扱うことだけではなくて、広島の実家や各夫婦が家族の構成員を包む「うち」を表現していると思ったんです。この橋爪さんと吉行さん演ずるご夫婦は進歩的で、家督を守れ!実家を継げ、とやかましく言わない性質なんです。旧習の打破にも腐心した世代ですね。それでその通りご長男が多摩で開業した。他の姉弟も上京して立派にやっている。でもご両親が落ち着くのはやっぱり「うち」という環境なんですよね。そこを妻夫木さんの婚約者である蒼井さんや隣のユキちゃんが如実に捉えてくれているというお話だと思います。「うち」には思いやり、責任感、包容力、謙虚さ、馴れ親しみ、つまり忘れ去られた日本人の美徳がある。対してそれらを排斥したスマートで一見華やかな核家族、都会の生活は快適なのに落ち着かない、居場所がない。居酒屋の嘆きはこの「うち」の精神の復興かなと思いました。風吹さんは真野さんのさくらのアンチで面白かったですw 寂しい内容なのに希望が残る、不思議な映画です。映画終了後、ロビーでご婦人連れが喋っていました。「山田洋次監督の講演聴きに行ったの・・・スゴイ」ね、誰でもそう言うんですから!

ヒットのヒミツ!

昨年「北のカナリアたち」と「ツナグ」を立て続けに観た時に、「レ・ミゼラブル」予告篇の印象が強く、これは是非観なければいけない!と思ったものだ。結果007が後回しになったw この予告篇というものがクセ者でwヒュー・ジャックマンが「全く新しい画期的な方法なんだ! イヤホンを耳に入れて唄う事で感情がこもる、そのピアノ演奏がまたいいんだ!」まるでスピードラーニングか何かのCMのようであるw 外国語学習が好きな人は映画好き、俳優さんもそういう若きスタッフに大勢囲まれて悪い感化を受けたのであろうw プレミア特番の時にもジャックマンのハイな笑い方、ハサウェイの衣装にヤル気を感じたものだが観客動員と高評価に繋がって何よりである。

さて「ツナグ」の感想であるが、いつ樹林さんが桃李くんの股間にタッチするかと最後の方までハラハラしながら観たのであるが、当然そんな映画ではなかったw 東京タワーのような展開になる中、仲代さんが笑点のようないでたちでテーマに関わる場面を演じます。まずこの映画のヒット要因、よいところは、死者との再会を扱っているのに宗教・オカルト臭さがほとんど無いところ。それが身近な人とのすれ違いと交流というテーマを強調し、メッセージ色や説教臭さもなく、この映画も面白いけれど観易い、眠くならない映画ではありました。とにかく一番よいのは中篇の女子高生役のお2人の熱演ですが、桐谷美玲さんも自然な感じで佐藤隆太さんと釣り合っており、他のレビューで言われるほど演技がどうのという印象はありません。むしろこの脚本・監督はこの日常と死後のつながり、継続性、絆を「ツナグ」というタイトルで表現したかったと考えられるからです。ただ自分にとって桐谷さんはどこまでも「美人のヒミツ!」ですねw

ここから素人の卑見ですがw個人的にはここまでオールスターキャストを揃えたらもっと重厚なお涙頂戴ではないにせよ、深い感動大作ができたんではないの、と思います。ただそこを敢えてライトな感覚、青春映画にしたのがこの「ルーキーズ」の脚本・監督のセンスなので、そこは観客に受け入れられた事は認めます。ただ樹林さんには東京タワーの印象が強烈だったのであのレベルの感動を期待していたのかも知れませんね。仲代・八千草・樹林というベテラン勢と若手有望陣が見事な綱引きを演じ、その絶妙なバランス感が両者の共通項を照らし出し、言葉で言い表せない静かで深い余韻を生んだのだと思います。

 

化身

ちょっと頭のおかしいことを書きますが、私はよく桐山さんや真如苑の伊藤苑主の化身と遭遇します。桐山さんの化身は2種あって、1人は現在の老いたご本人、もう1人は星まつりポスター写真の昭和末期の初老ながらオールバックで精悍な桐山さん、こちらの方が圧倒的に多いのです。スポット派遣で倉庫で働いていると、ある男性と知り合いになりました。相互に手伝い合って仕事を済ませます。帰りのバスの中、その男性が私の隣に座ってきました。たわいない会話を交わすうち、話題がいきなり記憶術w無愛想な私も苦笑を抑えるのに必死でした。何故か電話番号を交換し、後日新たな仕事を紹介してくれましたが断りました。きちんとした実在の人物なのですが、私は彼を桐山さんの化身と思っています。真如苑の真砂子継主(苑主)、さらに真乗教主の化身も時々現れます。髪形とか眼鏡などで判断するのですが・・・阿含宗の職員や先達の化身は在籍当時からですね。もう退会してしばらく経つから止めてほしいのですが・・・最近Yさんという苗字が周辺に頻出します。この方が阿含宗なのか創価学会なのかはよく解りません。私に透視霊能は必要ないのです。向こうから3次元的に化身をとって近づいて来るのですから・・・いきなり豹変するんですよ、もう気にもしませんが。

のどかさは交通安全の大敵?

これは守秘義務に抵触しないと思うので書きますが、交通事故というものは意外と危険な状況では起こらないものなんです。渋滞中の複雑な交差点ではドライバー皆眉間に皺寄せてるし、乱暴な運転も信号無視もありますが、大事故に繋がるイメージは少ないものです。むしろ事故が起こるのは事故の原因がまず見当たらない平和な雰囲気、交通量の少ないところ。つい気持ちが大きくなって猛スピードで吹かしてみたりするのです。で歩行者も同様に気持ちが大きくなって油断しているのです。この両者がかち合うと起こる筈のない事故が起こってしまうわけで、油断大敵の箴言通り怨霊の侵入を招いてしまうのかも知れません。俗にいう「魔が射す」という奴ですね。

密教と日蓮

真言宗を信じる不勉強な素人として、また真如苑阿含宗の説明、またはネット上の批判掲示板を眺めて感じるのが、①釈迦の阿含②密教の祈祷③神仏習合、これら3つがうまく並立しない、ということですね。①の釈迦は原因結果のサイクル、②は神仏を召喚した祈り、③はですね、これは本地垂迹とかその逆とかありますが、卑見ではこれ自然霊で同じだと思います。拝んでて日輪がパーッと射して来た時に、そこに大日如来を感ずるか、天照皇大神を感ずるかは信教の違いだと思います。それでも太陽の射し方に違いはあると思いますが、結局太陽光線である事に相違ないわけでしょうwただそこに自然霊という仲立ちをお呼びする、ということだと思います。神というのは杜のことですなわち「聖域」が原義らしいですから、ここから端的に「大自然の威力」ということでしょう。この自然崇拝と、空海の六大が関係してくるわけで、カルマの浄化ということを考えると、神仏を拝んだり、社会福祉に精励することで運命を好転させる=自分のカルマを神仏に同調させる、協調させるという意味で上記の①三密加持②四曼荼羅③六大無碍に通じてくると思います。ただ釈迦は祈りを否定し「すべては因縁だから仕方がない」という立場なんですね。しかしそれでは宗教にすがって来る困窮者の問題解決にならないので神仏に祈る、基督教などを模した大乗仏教が立ち上がってきたわけで、「仏教真理が難解でもとにかく仏神に祈れ、釈迦も天啓で悟ったに違いない」となって来たのだと思います。釈迦自身「因果関係は複雑微妙で難解だ」そう単純なものではないと告白している筈です。日蓮宗はこの複雑微妙な密教教義を整然としたのですが、教義では元ネタの本家を否定しても、拝んだ時には事実上エネルギーをそこから引いて来て日蓮曼荼羅経由で授かるのであろうから、信者以外が既成の神仏を普通に拝んで何が悪いの、どの宗派でもウチが一番よそはダメというでしょう、となってくるのです。日蓮曼荼羅の功徳というのは非常においしい魅力があり、実際そういう事例も多いでしょうが、釈迦の教えは場面場面で一喜一憂するのではなく因果のサイクルで考えなよ、と諭しているわけで日蓮宗信者の人生を長期的な視野で俯瞰した場合、果しておいしい場面だけなのかと問えばここは疑問なわけです。真摯な日蓮宗の方には失笑無礼な内容なのは承知ですが、やはり「出世の本懐」という出だし、仏教信者は出家隠棲するという古代から現在までも続く宗教者の苦悩という動機に日蓮宗は果してどこまで応えているのでしょうか。仏教を広く世に出すのと仏教を出世や金儲けの手段にするのとでは違うでしょう。これまでの歴史的経緯を見る限り、個人的にはやはり日蓮曼荼羅の示す功徳は「虚妄分別」「他者への寄生」「エゴの助長」に繋がってしまうのかな、と感じます。そうでない日蓮宗信者の方がたくさんいるのも事実ですが、こういう人が目立ちますね。日蓮本人は神社参詣も探究し密教修行も本家で勉強しているんですから、一切の神仏を棄てて日蓮曼荼羅一本というのは迷いこそ払われても、思考停止の危うさを孕みます。