新現代を斬る・斜陽篇

政治と宗教のFC2版「余震と雑感」専門の雑文ブログです

必然か偶然か

  基督教の予定説というのは、たとえば東北でもどこでも大震災があって、Aの教会はぺしゃんこに潰れて、Bの教会は奇跡的に生き残りました、しかし普段の活動はA教会は禁欲的に誠実に礼拝集会を行ない、B教会は酒飲んで麻雀打ってたwこれ勿論たとえですよ。これは神の采配で人力の関与するところではない、もっといえば、A教会は一見まじめなようでも内心には神に対する背徳があり、逆にB教会は一見乱痴気騒ぎのようでも裡には敬虔なるものを秘めていたんだ、神はそこをお見通しだったんだ、まあこういうところでしょうか。

   競馬でも出走前は推奨馬注目馬の理由をさまざまな角度から紹介しますが、一旦着順が決まれば、入賞馬の勝利の理由をもっともらしく解説してますねw これは生存競争における原理がいまひとつ不明な我々にとってとりあえずの納得をもたらす後出しじゃんけん的な見方です。「努力」という言葉も同じで、結果を出せば「努力していた」そうでなければ「努力が足りないんだ」これも後付けの見方でしょう。

  神さまを信じて徳行と祈りで霊徳を向上させれば罪業が浄化される、これは事実だとは思います。しかしその結果の現象から遡って、そもそもあの人は、もっといえばオレ様は神に見込まれて生まれてきたんだ、何をやってもダメなあいつはそもそも神に見棄てられた「生まれ」なんだ、こういう考えはどうでしょうか。

  これは結果で手段が正当化される考えを生み、その場しのぎの刹那的生き方に繋がりやすく思います。このように基督教や法華経に見られる予定説は「善悪逆転、因果なし」の刹那的生き方を招きやすいと思います。その結果永遠に神の国に安住できればよいですが、成功の美酒も束の間、周辺から因果応報の真実がじわじわと流入してきて、ついにはパーンと空中分解してしまいます。

  仏教は因+縁ですから必然と偶然が和合していると説きます。勝った負けたではなくてその結果・現象が自分に対してどのような意味合いを持ち、今後どのような関わり方をしていけばよいのか、他人との競争でなく自分自身の中で捉え直すこころの余裕も必要ではないのでしょうか。