新現代を斬る・斜陽篇

政治と宗教のFC2版「余震と雑感」専門の雑文ブログです

密教と日蓮

真言宗を信じる不勉強な素人として、また真如苑阿含宗の説明、またはネット上の批判掲示板を眺めて感じるのが、①釈迦の阿含②密教の祈祷③神仏習合、これら3つがうまく並立しない、ということですね。①の釈迦は原因結果のサイクル、②は神仏を召喚した祈り、③はですね、これは本地垂迹とかその逆とかありますが、卑見ではこれ自然霊で同じだと思います。拝んでて日輪がパーッと射して来た時に、そこに大日如来を感ずるか、天照皇大神を感ずるかは信教の違いだと思います。それでも太陽の射し方に違いはあると思いますが、結局太陽光線である事に相違ないわけでしょうwただそこに自然霊という仲立ちをお呼びする、ということだと思います。神というのは杜のことですなわち「聖域」が原義らしいですから、ここから端的に「大自然の威力」ということでしょう。この自然崇拝と、空海の六大が関係してくるわけで、カルマの浄化ということを考えると、神仏を拝んだり、社会福祉に精励することで運命を好転させる=自分のカルマを神仏に同調させる、協調させるという意味で上記の①三密加持②四曼荼羅③六大無碍に通じてくると思います。ただ釈迦は祈りを否定し「すべては因縁だから仕方がない」という立場なんですね。しかしそれでは宗教にすがって来る困窮者の問題解決にならないので神仏に祈る、基督教などを模した大乗仏教が立ち上がってきたわけで、「仏教真理が難解でもとにかく仏神に祈れ、釈迦も天啓で悟ったに違いない」となって来たのだと思います。釈迦自身「因果関係は複雑微妙で難解だ」そう単純なものではないと告白している筈です。日蓮宗はこの複雑微妙な密教教義を整然としたのですが、教義では元ネタの本家を否定しても、拝んだ時には事実上エネルギーをそこから引いて来て日蓮曼荼羅経由で授かるのであろうから、信者以外が既成の神仏を普通に拝んで何が悪いの、どの宗派でもウチが一番よそはダメというでしょう、となってくるのです。日蓮曼荼羅の功徳というのは非常においしい魅力があり、実際そういう事例も多いでしょうが、釈迦の教えは場面場面で一喜一憂するのではなく因果のサイクルで考えなよ、と諭しているわけで日蓮宗信者の人生を長期的な視野で俯瞰した場合、果しておいしい場面だけなのかと問えばここは疑問なわけです。真摯な日蓮宗の方には失笑無礼な内容なのは承知ですが、やはり「出世の本懐」という出だし、仏教信者は出家隠棲するという古代から現在までも続く宗教者の苦悩という動機に日蓮宗は果してどこまで応えているのでしょうか。仏教を広く世に出すのと仏教を出世や金儲けの手段にするのとでは違うでしょう。これまでの歴史的経緯を見る限り、個人的にはやはり日蓮曼荼羅の示す功徳は「虚妄分別」「他者への寄生」「エゴの助長」に繋がってしまうのかな、と感じます。そうでない日蓮宗信者の方がたくさんいるのも事実ですが、こういう人が目立ちますね。日蓮本人は神社参詣も探究し密教修行も本家で勉強しているんですから、一切の神仏を棄てて日蓮曼荼羅一本というのは迷いこそ払われても、思考停止の危うさを孕みます。