新現代を斬る・斜陽篇

政治と宗教のFC2版「余震と雑感」専門の雑文ブログです

善意のオネガイ

新興宗教も教団霊中心のものと怨霊中心のものとがあるように思う。教団霊というのは多数の集団を雰囲気で操る術を持っている。利己的な動機故のマッチ・ポンプな自己矛盾から結果が元の木阿弥、空騒ぎだけで進歩がない場合が多い。対して、この怨霊中心の宗教というのが前者に比べれば素人には一見高尚にみえる。勿論これは便宜的な区分で両者の要素が混在しているのが普通だが、何をいいたいのかというと、怨霊は自分の人間性に自信がある人に憑くのではないかという懸念があるからだ。つまりこの状況下では俗にいう「お前の心掛けが悪いんだ」という指摘が一見当てはまらない場合が多い。潜在意識を細密にほじくってここは傲慢、ここは自信と腑分け点検しても意味がないので、そうではなく感情的な「人間的・・・!」というセルフイメージの孕む危うさを指摘したいのである。こういう人は常にいい人であろうとして心掛けや手法の選択で自業自縛に陥っており、精神不安定のところに怨霊が付け込む隙がある。日頃悩み迷う人物がある時いきなり強い自信をもってコトを決行する、これは通常とてもよい事の筈である。当然それがすべて怨霊の仕業とまでは思わないが、怨霊の特徴として、他人に何か強く懇願する、こういう特徴はあるかも知れない。つまり善意を通じて他人を使役酷使するということだ。これが常識的な範囲や当然の配慮を著しく欠いている場合、そしてその結果がどこまでも実を結ばない場合には怨霊の影響が関係しているかも知れない。