新現代を斬る・斜陽篇

政治と宗教のFC2版「余震と雑感」専門の雑文ブログです

正月仏法雑文

人間には精神性と霊性の双方が必要だという。釈迦の教えは原因-結果この「サイクル(=中道)」に注目活用しようということで、これら因・果の「どちらか一方」をその時々評価・記憶していれば悲嘆に沈まざるを得ない(無常)、といっているのだと思う。これはこれで真理である(精神性)。ただ一方で、願いがどんどん叶う人、努力順調で報われる人、罪や罰から無縁な環境にいる人、そしてそれらと対極に位置する人が存在する。これらを「因果律」の一言で片付けるのは簡単だ。しかしそれでは救われない。この不幸のスパイラルにはまり込んでしまった人々に対しては、神・仏、それも高級霊の力を注入し、自力を棚上げして他力のそれに縋るようにした方がよいのである。釈迦は因果努力の教えなのであるが、密教・浄土・禅・基督w各教えでは努力を否定し他力を説いており、それは修行の力尽きたところに救いの光射す、といった先人の体験に裏打ちされている。そしてこれは釈迦による「行為の業に伴って果が起こるのであって、行為中に業果を励い求めてはならぬ」との言説に一致する。「思考が現実化する」の成功法則は文字通りの現象に付随して、因・果双方の裏表を伴うことを忘れてはならないだろう。初歩的な仏教書理解すらも神仏を拝まなければ(そして度重なる願望実現効果によって現世への恨み・執着が薄らいでいなければ)到底叶わぬというのが偽らざる実感だ。自分のこころが見えない世界でどんな霊とアクセスしているのか、それが邪霊なのか、正法に準じた健全な霊なのかでは努力の結果が素直に出るのに大きな違いがある。それも本来は因果応報なのであるが、俯瞰者自身に自己を判断するのは不可能だ。だから正しい人も間違った人も一旦は正しい光に自己を委ねた方がよい。その時あれだけ求めていた自分を断片化する“価値”はこそげ落ち、自己存在はただの“普遍”になる。自己が価値から遠いのか近いのか自己測定し思い悩む人生から、いまこの現象から背後に潜むサイクルを推し量る知恵の人生に視点が移行するわけだ。